マリンさんとは、一体どんな人物なのか、あまり知らない方も多いのではないでしょうか?
マリンさんは高校卒業後、単身で南米に渡り、パラグアイで4年、ボリビアで4年サッカー選手としてプレーしていたにもかかわらず、現役引退後はなんと松竹芸能に所属し、お笑い芸人として活動しているという、面白い人生を歩んでいる方です。
この記事では、
マリンさん(芸人)のwiki風プロフィールは?
マリンさん(芸人)の本名は?
マリンさん(芸人)の南米サッカーの経歴は?
という内容でご紹介したいと思います。
マリンのwiki風プロフィール
マリンさんのwiki風プロフィールを見てみましょう。
氏名 | 松本 磨林 (まつもと・まりん) |
---|---|
芸名 | マリン |
生年月日 | 1988年 12月 30日 |
年齢 | 32歳 (2021年4月現在) |
血液型 | A型 |
出身地 | 埼玉県狭山市 |
身長 | 166㎝ |
体重 | 66㎏ |
足のサイズ | 27.5㎝ |
特技 | サッカー |
事務所 | 松竹芸能 |
半年ぶりに蹴ったらスイッチ5回が限界でしたww#フリースタイルフットボール#freestylefootball#ファンフリスタ pic.twitter.com/fiIVLo92Rr
— マリン(オチャニゴス) (@kotsubanzenkei) March 12, 2021
さすが、元サッカー選手ですよね!
マリンの本名は?
『マリン』という芸名の由来って気になりますよね。
調べてみると、じつは、 マリンは本名なんだそうです。
マリンさんの本名は、まつもと まりん、漢字では 「松本磨林」と書きます。
ご両親が、磨林の磨の字には、木や石という字が入っていて、林にも木という字が入っていることから、地球上の全ての自然を大切にするように…、という願いを込めて「磨林」と名付けてくれたそうです。
素敵なお名前ですよね。
海外にも、マリンという名前は多くいるので、南米でサッカー選手だった時にも、受け入れられやすかったのではないでしょうか。
「マリン」という芸名は、本名に由来していたんですね。
マリンの南米サッカー経歴は?
マリンさんは、サッカーを5歳の頃からはじめ18歳まで川口能活(かわぐちよしかつ)選手に憧れ、ゴールキーパーをしていました。
そんなマリンさん、2000年のトヨタカップを見て、南米のサッカーがめちゃくちゃ好きになります。
マリンさんは身長も低かったこともあり、レギュラーは難しいと、ずっと控えゴールキーパーだったそうです。
しかし、南米の選手には身長の低いゴールキーパーも多く活躍していることを知り、高校卒業したら南米に行くことを決意します。
まずは、1年サッカー留学のつもりで、パラグアイに行き、留学先の方がサッカーチームを探してくれて、テストを受けることになったのが、名門中の名門、オリンピアでした。
そのオリンピアのテストで、マリンさんはゴールを許さず、ボールを止めまくったそうです。
これが認められ、見事テストに合格。
ここから、パラグアイで4年、ボリビアで4年、南米でのサッカー選手としての人生が始まります。
マリンさんが8年間で所属していたチームは、以下の5チームになります。
- Olimpia U-20 (パラグアイ)
- Humaita FBC (パラグアイ)
- General Caballero De Campo Grande (パラグアイ)
- La Maquina Vieja Milton Melgar (ボリビア)
- Depolitivo Alemanni Descre(ボリビア)
Olimpia U-20時代
★オリンピア U-20 第4ゴールキーパー
最初はスペイン語が全く分からず、スペイン語の辞書を練習に持参して、監督に呼ばれると、辞書を渡して監督に辞書を引かせて、辞書でコニュニケーションをとっていたそうです。
そんなオリンピアでサッカーをはじめて、フィジカルトレーナーのホセさんと出会い、練習を重ねること半年、1軍でプレーするには身長が低いということで、3つの選択を迫られます。
- フィールドプレーヤーになるか
- フットサルのゴールキーパーになるか
- 荷物をまとめて日本に帰るか
という選択でした。
マリンさんが選んだのは、オリンピアに残り、右サイドバックのフィールドプレーヤーになることでした。
そして、右サイドバックとして練習を重ねて、2軍にいくテストを受けますが不合格。
そこで、フィジカルトレーナーのホセさんの紹介で、右サイドバックがいないチームへ移籍することになります。
Humaita FBC 時代
★パラグアイ4部リーグ ウマイタフットボールクラブの右サイドバック
ここで、マリンさんは南米サッカーの洗礼を浴びることになります。
南米では、ルール違反は当たり前。
いかに上手にルール違反をするか、いわゆる汚いプレーというものを練習から教えられます。
1年もすると、マリンさんはパラグアイ人より汚いといわれ、パラグアイ人を超えてしまうほど、汚いプレーが上手くなってしまったそうです。
General Caballero De Campo Grande 時代
★パラグアイ4部リーグ へネラル カバジェーロ デ カンポ グランデの右サイドバック
このチームは、パラグアイ4部リーグの強豪と呼ばれたチームでした。
しかし、このパラグアイ4部リーグには、八百長と呼ばれてもおかしくない暗黙のルールが存在していました。
その暗黙のルールというのが、『スラム街で試合をする時にはスラム街のチームに勝ってはいけない』というものです。
理由は、スラム街のチームに勝ってしまうと、スラム街のサポーターに何をされるかわからないからだそうです。
試合よりも命を守れ…、日本では考えられない世界ですよね。
★その後、パラグアイ4部リーグで2位になり、パラグアイ3部リーグに昇格
しかし、ここでマリンさんはサッカーを辞めようかと悩みます。
そんな時、パラグアイ人の友達がボリビアでテストを受けていて、「マリンも一緒にテストを受けないか?」と誘われます。
そしてマリンさん、「思い出になるかな…」程度の気持ちで、ボリビアに行くことを決意します。
La Maquina Vieja Milton Melgar 時代
★サンタクルス州2部リーグ ラ マキナ ビージャ ミルトン メルジャールのセンターバック
ボリビアに来てテストを受けたところ、パラグアイでのフィジカルトレーニングのおかげで、ジャンプ力が飛躍的に向上していたことがわかり、ボリビアではセンターバックでプレーしていたそうです。
ボリビアでのフィジカルトレーニングの場所はなんとジャングルだったそうで、野生のナマケモノやタランチュラ、コモドオオトカゲといった危険生物にいつ出くわしてもおかしくない環境で、トレーニングをしていたと言いますから、それはもはや命がけのトレーニングですよね。
そこで、強い脚力がついたそうです。
★ボリビア サンタクルス州 2部 優勝 ・サンタクルス州 1部に上がる
しかし、ここにきて予期せぬ出来事が起こります。
このチームは、会長が2人いて、しかも2人は恋人同士で、チームを運営していましたが、なんと
チームのアルゼンチンからきた助っ人ゴールキーパーの選手と女性の会長が駆け落ちしてしまうという事件が起こります。
それにショックをうけた男性の会長は、もう続けられないとチームを去ってしまいます。
こんな恋沙汰に選手も巻き込まれ、みんなそれぞれチームを去り解散。
マリンさんはというと、試合をずっと見てくれていた人がスカウトにきてくれて、ボリビアのチュキサカ州1部 デポリティーボ アレマン デス クレというチームに移籍することになります。
Depolitivo Alemanni Descre の時代
★チュキサカ州1部 デポリティーボ アレマン デス クレに移籍 右サイドバック
ここでは、標高4000mにスタジアムがあって、マリンさんは最初、高山病がきつかったようです。
それも、水をたくさん飲むことで、徐々に克服。
中堅のチームで勝ったり負けたりを繰り返しながら、チームの会長がお金持ちだったこともあり、良い環境でサッカーも私生活も満喫できたそうです。
しかし、ボリビア3年目、チームの会長が変わり、一気に貧乏チームに。
チームのユニフォームもオリジナルではなく、ドイツ代表の市販で売っているレプリカユニフォームを着ていたと言いますから、驚きですよね。
チームの環境も会長次第なんですね…。
その後、すっかりサッカーへのやる気が薄れてしまったマリンさんは、ボリビアに来て4年目にして、サッカーを辞めて日本に帰る決意をします。
日本に帰国・お笑い芸人へ
日本に帰国したマリンさんは、サッカースクールのコーチの仕事を探し、面接を受けます。
しかし、面接官に言われた一言が「日本の社会人経験がない人は雇えません」という厳しい言葉でした。
そこで、インターネットで別の仕事を探している時に目に入ったのが、『松竹芸能タレントスクール募集』の文字でした。
それに興味を持ったマリンさんは、直観で松竹芸能タレント養成所に入り、そこからお笑いの勉強をはじめて、現在に至るそうです。
まとめ
マリン(芸人)さんのwiki風プロフや本名は?南米サッカー経歴を調査!という内容でご紹介しました。
南米サッカーの経験が、現在のお笑い芸人としてのネタとしていきているんですね。
今後、お笑い芸人としてのマリンさんの活躍もぜひ期待したいと思います!